どうも森田です。
なんか哲学っぽいタイトルですが、結構身近にあり過ぎます。
僕は正解って別になんでもいいんじゃないかなーって思ってる方で、だからこそ正解だと主張するのがそもそも間違いだと思ってます。
正解はなくても間違いはある気はしてます。
でも正解がないからこそ、間違いがまかり通りやすいのかなとも。
とはいえ、もしも結果で正解を決めるというのなら、
左右にダーツをやや揺らしながら顔の前からほぼノーテイクバックでジャイロかけて投げるが正解になったりするんじゃないかと。
固有名詞は出してません。
あくまで極論です笑
そんなダーツに限って言えば"それっぽい"ってだけで正論だとまかり通ってる印象です。
僕がダーツやり始めた頃、ひたすら独学でネカフェで投げ続けたのも"それっぽい"危険性を察知してたからです。
おかげ様であまり良い顔されませんでしたが笑
二言目には「人と投げないと強くなれない」とも。
それはどうでも良いんですけど、大多数が声を上げると「そうなんかな」と感じてしまうのが人間心理。
そこに輪をかけて自分より上手い人が言えば、なおさら強くそう感じてしまう。
例えば、真っ直ぐブルに手を伸ばす、とか。
たしかに結果的にそう言われればそうだけど、それは結果的にそうなってるだけで指導と言えんのか?
てな具合。
間違ってない場合もありますけど、それはあまりにも雑ちゃう?と。
これはピッチャーでいうところの「キャッチャーミットを見て投げる」と同じように思えました。
でも僕の中では、キャッチャーミットは別に見なくても良い。
実際投げ始めに少しミットを見たら、その後はほとんどミットは見ませんでした。
そうやって、ミットを見て投げなさいという多数派の意見を尊重していてはたどり着かなかった技術が身についたりしました。
でもミットを見て投げるって一見"それっぽい"じゃないですか?
ここでは省きますが、身体的な理由があって"見ない方が良い"んです。
もちろん見ても投げれますが様々な弊害が生まれます。
簡単にいえばケガしやすかったり。
ここは僕の、ダーツそのものが人の身体にとって不自然な動きなんじゃないかなと感じてる理由にも繋がって来ますが^^;
なので、ずっとミット見て投げてるピッチャーの方が実は少ない(半々くらいかな?笑)と感じます。
そうやって考えると、正しさって何やろな?と思いますよね。
あともう一つ、これは僕の主観ですが、色んな人の話を取り入れまくって上手くなる人はあまり見た事ありません。
それはこんな簡単に論理破綻するような基本が正解とされる例が数多いから。
特に根拠もなくそれっぽい指導をしてる人もたくさんいてる。
それで上手くなる人もいてますが、それは投げ込んだから上手くなっただけの話。
上手くなれば正解ならそれもありなのかも知れませんが、必ず道を引き返すような軌道修正は余儀なくされます。
だから自らが選択して、何を軸にして、何を起点とするかが大切。
失礼を承知で言うとそこに"自分の感覚"なんて不必要だと思っている。
合うとか合わないじゃなく、時には合わせなきゃならない時も出てくる。
これが僕の思う"それっぽさ"の危険性です。
そして僕の場合、起点はやはり身体。
まずこちらを作ろうとしました。
そして今は道具(ダーツ)
身体から物理です。
特に物理も知らず、PDCの選手の飛び方を真似てるだけで正論だと言っちゃう人とかもいたりとか。
野球でいえば、イチロー選手のモノマネしてるだけですからね。
なぜイチロー選手が打てるのか?そこを万人に応用出来るようにするのが本当の指導なのかなと思うし、そこに当事者の成長は隠されてると思います。
それさえ見抜けばセンスも創れるってのが僕の考えであり、正解に近い仮説です。
ただ僕は指導者ではなくプレイヤーなので、ある程度の理解と方向性さえ決まれば、時には頭の理解を追い越して身体で表現したいのが本音。
極論、分かるけど出来ないより、出来るけど分からない方が選手としては正解。笑
それが無理だから頭と身体をバランスよく仕上げて言ってるんですけどね。
"それっぽさ"を疑うところから始めれば視点も変わって面白い事になるんじゃないかなと思いますが、どうでしょうか?
周りの目とかもあると思いますが、ほんの少し寄り道した方が旅は楽しいんじゃないかと思いませんか^ ^
正しさはないけど、正しさを求め続ける事が正解だと僕は思ってます。