どうも森田です。
タイトルにある、規律の大切さは日本人の国民性から否が応でも理解なされてると思います。
しかし、この規律至上主義の根本ってどこだろう?と考えた時、僕は"第二次世界大戦"と"第一次経済成長"でないか?と考えています。
いきなり何言い出すねん、社会科のワードが出て来たやんと思われるでしょうが笑
でもよくよく考えたら、日本の土台ってそのあたりから作られてますよね。
そう、まず大前提に"作られてる"んですよ。
僕は第二次世界大戦を経験してるわけではありませんし、先人の事を書かせて頂くのはとても神経を使いますが。
ご存知の通り、戦時中の日本ってかなり規律が厳しかったんですよ。
メディアの制限、プロパガンダ、群衆操作。
国民上げて戦ってました。
悪を限定させてそれを討つ。という正義感。
みんなで1つになる。という一体感。
勝利した時の幸福感。
それが人の命を殺めていようと、殺められていようと国の為ならいとわない。
これは群衆における人間の服従の心理が働いてます。
結果的には日本は負けました。
しかしこれまでに感じた勝利に対する幸福感の名残が今日の規律を元にしたチームワークの根源だと僕は考えています。
その後の足並みそろえて成果をあげる性質も、これを元に作られたのではないかと。
それに第一次経済成長の際の日本の職種の多くは産業でした。
工場が全盛で日本経済を先進国まで押し上げました。
この時は、足並みそろえて行う仕事が最大限効率を上げる戦略でした。
この名残は社会人の方なら心当たりあるんじゃないでしょうか。
足並み揃える規律の特徴としては
管理が楽
教育が楽
成果が一定
というメリットがあります。
しかし現代において、これらは必ずしもメリットではないはずです。
経済的な事はあえて触れませんが、特にスポーツなんてこれらは果たしてメリットですか?という話です。
ただ、善悪の区別の付かない年代において一定の規律を設けるのは一考の余地はあります。
しかし身体の成長以外での競技力の向上を目的とした場合、やはりこれらは足枷になる事が多いです。
一方で"戦略の規律"と"行動の規律"は少し別の意味をなします。
ここでは割愛しますが、共に共通してるのは、達成した時の喜びです。
なんか論文的な言い方をすると"報酬"ですかね笑
さらに厄介なことに、規律の善悪とは無関係にこの報酬は得られるのが肝です。
報酬→行動の繰り返しで「当たり前」が出来上がります。
こうして作られたのが今の当たり前であり、この当たり前の作られ方は冒頭にも書いた、人が平気で人を殺める事も出来てしまうほど強力なものです。
なんでこんな機能が人間に備わってるのかな?とかも考えたりするんですが、やはり生存競争で勝ち抜くために必要だったのかな?というところで落ち着きます。
ここまで話が飛躍すると収集つかなくなりそうなので、これくらいにして。
このように、当たり前の作られ方の源泉は第二次世界大戦と第一次経済成長という仮説が僕の中にあります。
だからこそ創造性や独創的が必要な人ほど、この当たり前を書き換えていく必要があり、その作業が鍛錬の入り口ではないかと。
そうなってくると本当に必要な規律とは何か?
をフラットに、新たに設定し直していく事からまずは始めましょうと思うわけです。
"作られた土台"を今の時代にあった土台に作り変える事。
そしてその軸を過去の"権威"などではなく"真理"に軸を置く事。
真理に軸を置けば、権威や実績ってのは都合の良い"枝"程度にしかならない事が理解出来るはず。
むしろ勝手に枝が生えて来ると思いますけどね。
多分。
知らんけど。
時間かかるかも知れないけど、最も確実な考え方なのかな?と思って日々思考錯誤してます。
こんな感じで、当たり前を疑う要素の1つとして規律の性質を僕なりに描いてみました。
個人的に思うのは、これからは行動の規律ではなく思考の規律が必要だと思います。
とはいえ、それらを学ぶ機関がほとんど無い以上自らで導いていくしかないので出来るだけ物事の捉え方に多様性を持つ事が大切じゃないかなと思います。
さいごに、幸福度に勝る報酬はないので自身のゴールと日々の生活の折り合いを付けながら上手く報酬を利用して生きるのがベターな生き方じゃないかな?と思ってます。
無理なく目的地へたどり着く手段の1つの選択肢として考えてますがいかがでしょうか?
今回は、意味不明な規律に苦しんでる全ての人と過去の自分へ向けて書きました。
いや、ほぼ自分の為かな笑
グラッチェ!