"森田かずや"そのうち全英泣かします(´・Д・)」

元プロダーツプレイヤーです。ダーツっぽい事色々書いてます。

上手くならない理由から日本の教育を考える

どうも森田です。

 

この時期になると、野球を教えてた生徒達が帰省して連絡をくれる子達がちらほらいてます。

 

そこで飛躍した子もいれば、思った通りにいかなかった子もいる。

 

いずれもアドバイスを求めてくる。

 

そこで、特徴的なのが

「何回くらいやればいいですか?」

「1日何時間くらいやればいいですか?」

 

という質問。

 

そして面白い事に僕から見て"飛躍したな"と感じる子達の質問には、それらの要素が一切ない。

 

というかアドバイスも「あの時のあれやん」で終わる笑

 

一応は"中学で教え終わってる"はずですから。

 

とはいえ、僕も成長してる"はず"なので、新たに伝える事はあります。

 

でもそれはほとんどの場合、新たなものではなくて今まで"センチ"単位だったものが"ミリ"単位になったり、キロ単位だったものがグラム単位になるようなものの場合が多い。

 

それに一度言ったからと言って二度と忘れない保証もありませんしね笑

 

二度目三度目、何回でも僕は同じ事言います。

 

その理由は、同じ映画でも同じ印象とは限らんやろ?笑

同じ漫画も何回も読んだりして、気にならんかったところ気になったりするやろ?

だから指導も同じ事言っても違う視点で別の何かに気づく事もあんねん。

 

と説明してます。

 

 

一方の思った通りにいかず、くすぶってる子は数や時間にこだわります。

 

やった事ないから分からないですけど24時間ずっと同じ練習したら、もしかしたら上手くなるかも分かりません笑

 

やった事ないから知らんけど。笑

 

実は、それをまずは書き換えて行く作業が、僕の中で最優先事項なのですが、それでも未だにこの質問は一定数必ず出てきます。

 

とはいえ、何回何時間・・・その質問は決してマイナスではありません。

 

むしろ「やってやろう!」というポジティブな質問なはずです。

 

でも結果はほぼ付いてこない。

 

いや待てよ、僕が超ドSで殺す気でやったならもしかしたら・・・でもそれはそれで論点がズレるから置いとこう。笑

 

話し戻すと、僕がこれだけ最優先に「思考の書き換え」を位置付けても、一定数書き換えれない理由は「日本の教育」にあると思ってます。

 

またまた壮大っぽい話しになりそうですが、順を追って説明します。

 

まず、日本の教育の良し悪しの決め方って"学力"です。

 

その"学力"ってどうやって決めるか?

 

勉強の出来、テストの点数です。

 

じゃあテストの点数取る為にはどうしたら良いか?

 

覚えたらいい。

 

何も考えず、ひたすら暗記すれば、ほぼ高得点は取れるはずです。

 

なので"学力"とは"記憶力"です。

 

 

僕達が日本の教育で教わった勉強って、記憶力テストに勝つ方法なんですね。

 

そして「勉強ができる=頭が良い」という図式になります。

 

当然未だ優遇される学歴もこれに基づいてますから、学歴の高い人ほど上記の方法に忠実だったと言えます。

 

もちろん全てではありませんが、今の教育上「記憶力テストで勝ち続ける」事で「自分は頭が良い」という勘違いを起こしやすい状況になるのはむしろ自然だと思います。

 

そして、それにメスを入れたのが「ゆとり教育」ですね。

 

 

もっと考えさせよう!と。

 

その結果、失敗と言わざるを得ない時代を作りました。

 

ゆとり世代」という皮肉な言葉まで生まれました。

 

考える事に重きを置いた結果、皮肉な結果になった事実。

 

ここに大きなヒントがあると僕は感じます。

 

まず学生の学力とは記憶です。

 

では社会の学力ってなんだろう?と考えると、それは"導き"だと思います。

 

結果とかプロセスをひっくるめて、どう導くか?に焦点は当てられてきたはずです。

 

今まで覚えりゃ良かったもの、覚えたもん勝ちだった世界に、急に「答えを見つけろ」と突きつけられるもんだから、当然戸惑う。

 

これが日本の教育の実態だと思ってます。

 

とはいえ、全てを理解した上で「とりあえず記憶すりゃ学歴が手に入る」と割り切って生きるにはとてもイージーな時代だと思います。

 

実際、僕自身はそう思ってました。

 

スポーツ出来て勉強が出来たら学生時代ってまあまあ無双出来ます笑

 

"賢い"とさえ思ってもらえたら、大半の悪さも「一時の気の迷い」で大目に見てもらえます笑

 

そんな風に"ただ覚える"だけで得られるものが大きい、いや大き過ぎるのがこの日本の教育のシステム。

 

そして肝心の記憶力テストの点数なんて、数と時間をこなせば記憶障害などを除き、誰でも簡単に手に入ります。

 

やればやるだけ結果に比例する。

 

比例して向上する・・・

 

だ・か・ら

 

何回やれば良いですか?

何時間やれば良いですか?

 

のデッドクエスチョンが根強く残ってるのだと思います。

 

「ちゃうちゃう、最終的に大事なんは、記憶ちゃうで、導きやで。」

 

僕が野球を通じて社会で役に立つ部分は、まさにここだと思ってます。

 

そして、そう教えてます。

 

よく言われる礼儀とか敬語とか、そんなものくそ真面目にスポーツやるより、むしろヤンチャしてた方が手に入るんじゃないか?笑

 

むしろせっかく数あるスポーツの中から野球というスポーツを選んで、それしか学べないって情けないし、薄っぺらいやん・・・と思ってます。

 

こんなに"導き方"を学べるのに・・・と。

 

そして、それを30歳になってからダーツに活かしてみようと思ったのが森田一也なわけです。

 

ちなみに日本の教育を否定してるわけではないんです(ほぼ否定ですけど笑)

 

一つだけ足りないよね、と言いたいだけです。

 

今やってるのは記憶学習。

 

今後必要な"導き"には知識が不可欠だから、その準備だよ、と。

 

知識を蓄える為の準備に過ぎないよ、と。

どう活かすか?を考えるんだよ、と。

知識っていう点が無ければ、本当に必要な"線"は導けないよ、と。

 

 

ここまで伝えてこそ日本の記憶学習は意味を成すと思いません?

 

やります出来ます頑張ります、が通用してたのは記憶学習時代だったからだと。

 

そうなると

 

最初は量が大事だよ。

でも頭打ち来るよ。

 

の理由になりませんか。

 

なぜ頭打ちが来るのか。

なぜ量をこなす事の正義が無くならないか。

 

どちらも正解なはずが、すぐに論争を繰り広げる二極化の様相を呈す事も、今の日本の教育にあの一言を付け加えるだけで国民のレベルはワンランク上がると思うんですけどね。

 

でもそれを教える教師がマニュアルやもんな^^;

 

社会に出てない人が社会に出る人を育てる・・・

 

無理やわな。

 

だから僕は野球を通じて「この事」を伝えてるんです。

 

じゃあ必然的に野球も上手くなるだけで。

 

そんな感じで僕もダーツ上手くならないかな、と。

 

自分がまず証明しないとですね。

 

まあ見ときなさいよ。

 

グラッチェ!