どうも森田です。
球界の大御所、張本氏が大船渡高校の佐々木君の決勝戦に登板しなかった事について言及してましたね。
ざっくり言うと「投げるべき」って事を言って
当の監督は「故障の可能性がある」と言って投げさせなかった。
そして世論は張本氏を糾弾。
現役メジャーリーガーも批判。
これはあまり意味の無いたとえですが、まず僕が佐々木君ならどうしてたか?を考えると多分投げてました。笑
僕は、ここを回避して上の世界なんかないやろが!って思ってた気がします。
今なら「暑いから誰か投げてくれやー」って言うかも知れませんが笑
でもそれは個人差の話。
ニュースでわざわざいらんやろ?と思う。
じゃあ僕がもし監督ならどうしてたか?
まず多少の連投は出来るように指導してたと思います。
あの場での賛否なんかどうでも良い、指導こそ過程が大事です。
その上で登板の可否を決めていたと思います。
ところが、当の監督はアメリカの独立リーグでプレーした際に将来有望視されていた投手が怪我で棒に振った選手を見て投手は大事に育てようと思ったようです。
過程に僕は疑問持ちました。
大事にするのは良い事ですが、その根拠がある1つの理論ではなく言い方悪いですが目の前に起こった1つの出来事に過ぎない。
なぜ?の視点あったんかな?
アメリカの野球に目ぇくらんでない?
なんで球数絶対主義の文化になったか考えた事あるんかな?
僕はここが「喝っ!」だと思ってます。
「大事に育てる」
今の時代はそれが闇雲に肯定されてる気がします。
その背景に怪我したら指導者が異常に叩かれたりするのもある。
だから大事に育てることの肯定場、まるで昔の根性野球に対するアンチテーゼのように。
「大事に育てる」
これは何も悪くない、むしろ当然。
でも大事に育てたいから全て直前で管理する。
これが果たして大事なのか?と思います。
なぜ怪我する選手には怪我する理由を追求しようとしないのか?
少しでも負担のかからないフォームを追求しないのか?
僕は「球数絶対主義」のアメリカ野球の影響が強すぎるんじゃないか?と感じました。
ここで話を戻すと歴史上の大投手は、投げ続けて偶然負担のかからないフォームを見つけた方々だと思ってます。
少なくとも過去の動画を見る限りそんな感じです。
その理由は?
何が投げ続けれた要因なのか?
昔の人の身体は丈夫だったのか?
そんな訳ない、同じ人間。
むしろ今の方が食育も充実していて丈夫なくらいだと思ってます。
そんな中でも過去の大投手は投げ続けてた。
投げないといけない、少しでも投げ続けれるフォームが自然と身に付いた。
身に付かなかった選手は潰れていった。
そんな流れなのかな?と。
そして時は流れ、医療や指導法も発達して来た現代なのですから
「なぜ歴史上の大投手は投げ続けられたのか?」
そりゃ個人差も多少あるのかも分かりませんが、個人差レベルで同じ人間がここまで変わることはないでしょ?
そこをせっかく日本の野球には伝統があり、歴史を紡いで来たのだから
球数絶対主義
からの脱却。
なぜ先人達は投げ続けられたのか?を追求して欲しい。
その可能性を追求しようともせず
一方は
昔の投手はみんな投げてた
アメリカではあり得ない
みたいな軸の違う論争を繰り返して、歴史ある日本の過去を蔑ろにしてる事実が僕は悪だと思ってます。
本当に敬うなら、歴史を紡ぐつもりなら、連投出来た事実と連投が身体に良くない事実を擦り合わせて、より良いモノに昇華させてもらいたいと思います。
結果、球数は大事でした。ってなるかも知れませんし、実は球数関係なく投げ方の問題でした。ってなるかも知れません。
でも理想を追求して現代の理論を疑い、成長する意思が大事だと思ってます。
だから誰にも「投げさせろ」と口出しする事も「投げさせるな」と口出しする事も出来ないと思います。
当事者が出した結論に納得してたらそれで良いと。
その上で集大成である夏までに上記の事を追求した上での結論でしたか?というだけの話で。
これから先、新しい日本の野球を作って欲しいなと思います。
残念ながら僕は現場の人間ではないのでこれから先は現場の方々が独自に追求していってもらう事を願います。
グ!